修行登山:山頂で何を見出すのか
先日ちょっとした修行登山に行ってきました。
「修行」と聞くと、厳しい滝行や座禅を思い浮かべる方も多いかもしれません。
しかし、古くから日本には山そのものを御神体と捉え、その山に登ることで心身を清め、
悟りを開こうとする「修行登山」の文化があります。
今回、私にとっては「修行となる登山」に行ってきました。
その経験を少し共有しつつ、なぜ人々はわざわざ苦労してまで山に登るのか、
(何回か前にブログに書いていますね)
その道中で何を得て、山頂で何を見出すのかについてお話ししようと思います。
1. 苦難を乗り越える中で得られるもの
今回の登山は、私にとって決して楽な道のりではありませんでした。
10kg超える重い荷物を背負い、急な坂を登り、足場の安定しない砂利道を登る。
体力的にも精神的にも限界が試されました。
しかし、この苦難こそが修行の本質です。
(1)煩悩からの解放
煩悩とはちょっと言い過ぎかもですが、私生活で抱える仕事のストレス、
人間関係の悩み、些細な不満…。
山の中では、そうした雑念を抱える余裕はありませんでした。
一歩一歩、目の前の道に集中することで、心は研ぎ澄まされ、
日常の煩悩から、無意識のうちに解放されていきます。
というか、正直、何としても登らないとと必死でした。
(2)自分との対話
身体が辛くなると、「なぜこんなことをしているんだろう」という自問が生まれます。
しかし、そこで立ち止まらずに歩みを進めることで、
「自分は意外とやれるんだ」
「限界はまだ先にある」
という新たな気づきを得られます。
今回は登り始めて半分以上は、この状態でした。
全行程50丁あるなかで25丁目付近で両足の太ももの筋肉が
悲鳴を上げ、足が棒のようになっていました。
筋力の限界・・まさか、まさかでした。
仲間に励まされ、湿布を借りて貼って、頂上を目指して自分を鼓舞
していました。
2. 自然との一体感
山の中では、五感が最大限に研ぎ澄まされます。鳥のさえずり、
風の音、木の葉のざわめき、土の香り…。普段では気づかない、
自然の息吹を全身で感じることができます。
真っすぐに伸びた杉の木の逞しさ、時折現れる野生の鹿、
自然に没入する感じを体感できました。
(1)畏怖と感謝
険しい山道や天候の急変は、自然の力の大きさを教えてくれます。
人は自然の一部であり、その中で生かされているのだという畏敬の念が
芽生えます。そして、山に登らせてもらえること、美しい景色を見られる
ことへの感謝の気持ちが湧き上がってきます。
もちろん、今回の七面山は頂上に敬慎院というお寺がありますので、
信仰心をもって登山していました。登山して七面大明神に手を合わせて
無事登れたことを感謝しました。
(2)「無」の状態
何もない、ただ自然の中に身を置くことで、心は静寂を取り戻します。
日々の喧騒から離れ、ただそこに存在する。
この「無」の状態が、心の深い部分にある本当の自分と向き合う時間を
与えてくれます。
自分と向き合う時間を、味わうことができたと思っています。
3. 山頂で「悟る」こととは
多くの修行者が目指す山頂。そこで彼らは一体何を「悟る」のでしょうか。
それは、通常の登山だと何か特別な啓示を受けるような劇的なものではないかもしれません。
山頂で得られるものは、「あるがままの自分」を受け入れること。
苦しんで登った道程、自然の壮大さ、そしてその中にいるちっぽけな自分。
それら全てをひっくるめて、ありのままの自分を認め、受け入れる。
そして、「山頂からの景色は、自分の人生そのものだ」と気づく人もいると思います。
苦労して登り切ったからこそ見られる絶景、それは人生の困難を乗り越えた
先に広がる景色と重なります。
今回は早朝、富士山の横に朝日が昇り始めた時の、景色はたまらなく素晴らしかった。
修行登山は、人生の縮図と書いている本もあります。
私にとっての、修行を終えて、山を下りた時、心は驚くほど晴れ晴れとしていました。
山頂で得た小さな悟りが、きっと今後の私の人生を少しだけ豊かにしてくれるでしょう。
皆さんも、一度「修行登山」に挑戦して、山頂で何を見出すか、探してみてはいかがですか?



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